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ご挨拶 … 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を、藤田嗣治「秋田の行事」、藤田嗣治作品の恒久的な展示、鑑賞の場に

 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、秋田市の資産家・平野政吉(1895~1989)が、永年の交友のあった世界的画家・藤田嗣治(1886~1968)の作品など生涯に亘って収集した美術品を展示、公開するために、1967年(昭和42年)に開館した美術館です。
 特に、1937年(昭和12年)に、平野政吉の米蔵で藤田嗣治が制作した壁画「秋田の行事」を展示することを主目的に建設されており、様々な配慮がなされております。
 藤田嗣治の助言により、美術館の屋根の丸窓から、館内に自然光が降り注ぐ形式が取られ、壁画の魅力をより一層引き立たせています。「秋田の行事」の展示が、床から6尺(約1.8メートル)上げられ、両端が少しずつ迫り出して据えられているのも藤田の指示によるものです。臨場感を体感できるように配慮された展示方法になっているのです。
 また、「秋田の行事」を展示している大展示室は、広さが500平方メートル、天井高が18メートルあります。この展示室で観ればこそ、大壁画の迫力を感じることができるのです。さらに、吹き抜けの3階部分は回廊式になっており、3階の正面、右側面、左側面からも壁画が観れるよう配慮がされており、「秋田の行事」の壮大さがより一層理解できます。
 この美術館には、藤田嗣治と平野政吉の構想が採り入れられています。二人には秋田に「新しい奈良」を造りたいという思いがあり、建物のデザインは日本的なものが意識され、正倉院を模した高床式の構造や、日本宮殿流れ式の双曲線の屋根の形になっています。
 特に、平野政吉が、1966年(昭和41年)、美術館建設の報告を兼ね、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルの藤田を訪ねた際、藤田に、美術館の屋根は、ランス礼拝堂(藤田が最後に手掛けた「平和の聖母礼拝堂」)と同じ採光の形式にするようにと助言され、平野はそれを忠実に守ったと語っています。
 このように、世界的画家、藤田嗣治の助言を採り入れた、藤田嗣治と関わりの深い美術館は他になく、文化的価値の高い美術館です。
 この現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を失うことになれば、秋田県、秋田県民にとって、大きな損失になります。
 秋田県は現秋田県立美術館(平野政吉美術館)から、「秋田の行事」を始めとした収蔵作品、平野政吉コレクションを2013年秋までに、2012年6月に完成した新秋田県立美術館に移設する予定であるとのことです。
 当会では、移設の中止と「秋田の行事」を始めとした平野政吉コレクションを、平野政吉と藤田嗣治の理念を継承した現美術館(平野政吉美術館)で恒久的に保存、展示、公開をするよう提唱します。
 当会の趣旨に賛同する皆様に、秋田県、平野政吉美術財団に対し、「秋田の行事」を始めとした平野政吉コレクションの移設中止の要請をするよう、お願い申し上げますとともに、各皆様のお立場において、様々な形で移設中止を広く訴えて下さいますよう、提唱します。





藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)




 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)



 秋田県は、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を6月末日までで閉館にし、大壁画「秋田の行事」などの藤田嗣治作品を、昨年完成の新秋田県立美術館に移すとしています。
 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館することは、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を閉じることと同じです。
 また、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、藤田嗣治の数々の助言を採り入れ完成しています。
 藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史、二人が残した文化を、後世の美術を愛好する人々、美術を志す若者、藤田嗣治ファンに伝えるためにも、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館すべきではありません。
 心ある皆様、秋田県に、「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転を止め、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館しないよう、訴えてください。
(2013年5月15日)



 秋田県立美術館・平野政吉美術館が閉館になれば、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した「秋田の行事」の最も良い展示の姿が見られなくなってしまうことになります。

 これは、美術愛好家、藤田嗣治ファン、美術を学ぶ若者たち、秋田県、秋田県民にとっても大きな損失です。

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような広い空間で観ることを提案し、美術館の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えるべきです。
(2013年5月15日)



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パリでの「乳白色」から、色彩と三次元表現の「秋田の行事」へ … 藤田嗣治の変貌

 1910~20年代にかけて、透明感のある独特な「乳白色」の技法を生み出し、パリを舞台に、モディリアーニ、ピカソ、パスキンらとともにエコール・ド・パリの一員として活躍した画家・藤田嗣治。この乳白色は、日本伝統の浮世絵の色をモチーフに、藤田が独自に生み出した色で、繊細な黒い輪郭線とともに、当時のヨーロッパ画壇で高く評価されました。画家・藤田嗣治の代名詞と言えるものです。
 やがてエコール・ド・パリの時代が終焉を告げ、1931年、藤田はパリを離れ、中南米の旅に出かけることになります。
 旅行中藤田は、ペルーのインカ遺跡、マチュピチュ遺跡などを訪れ、メキシコでは強烈なP1010454 藤田嗣治色彩を帯びた壁画に出会い、強い衝撃を受けました。旅先で描いた藤田の作品は、「カーニバルの後」(1932年)、「町芸人」(1932年)、「室内の女二人」(1932年)などのように色彩豊かなものになりました。
 2年後、帰国した藤田は、関東大震災から復興した東京や大阪、京都でビルを飾る壁画の制作を依頼されましたが、そこで求められたのはパリ時代の乳白色の藤田でした。乳白色は離れて見る壁画には向かない。そんな時、葛藤する藤田のもとに、藤田の作品に魅せられ、収集家になっていた秋田の平野政吉が「あなたの絵を集めた美術館を建てたい」と切り出し、藤田はその美術館の壁を飾る壁画の制作を表明しました。
 藤田は、秋田の歴史、文化、風俗、その時代的意味など、秋田の全貌を描きたいと、半年かけて取材し、構想を練り上げ、人々の暮らし、風景、祭りなどを脳裏に焼き付けました。
 1937年(昭和12年)3月、藤田は、平野家にある大きな米蔵をアトリエにし、平野が用意した5枚の巨大なキャンバスに、174時間という驚異的な速さで、秋田の全貌を描き切り、後に「秋田の行事」と呼ばれる大壁画を完成させました。
 藤田は、赤、青、白などの強烈な色彩で、秋田の熱気に溢れた竿灯、梵天、秋祭りと、慎ましく温かい人々の冬の暮らしを対比して描き、秋田の息遣い、匂い、音までも漏らさず描き出しました。
 100人の群像を、20メートルの巨大キャンバスに描いた「秋田の行事」は、その圧倒的な大きさだけではなく、藤田の指示により、展示の仕方に工夫が施されています。「壁画は床から6尺(約1.8メートル)の位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けること」と藤田が平野に指示していたのです。
 それは何故なのか。
 この壁画の正面に立つと、右手の山王祭の屋台は右奥後方へと続き、梵天の男達は階段を駆け上り、右奥上方へと画面を突き抜けるように進んでいます。中央の竿灯は、敢えて下から描かれ、画面を突き抜けた上方にまで視線が向かいます。左手の画面でも人物、馬などの配置は左奥へと描かれ、香爐木橋(こうろぎばし)の入口、かまくらの入口、雪だるま、平野家の愛犬、錦風も中央を向いています。
 つまり、正面からこの大壁画を見ると、絵は左右奥の方向へと広がりを持ち、臨場感に包まれるのです。
 藤田は、大壁画「秋田の行事」において、三次元的表現、奥行感を出すことに着目し、描いたことが分かります。

 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の「秋田の行事」を展示している大展示室で、「秋田の行事」の正面に立ち、藤田が描いた時代の空気、音、匂い、祭りの熱気、人々の暮らしの息遣いを感じて欲しい。
 この大展示室の空間が、唯一無二の「秋田の行事」の展示、鑑賞の場であることに気づくことでしょう。 



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以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)




 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)



 秋田県は、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を6月末日までで閉館にし、大壁画「秋田の行事」などの藤田嗣治作品を、昨年完成の新秋田県立美術館に移すとしています。
 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館することは、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を閉じることと同じです。
 また、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、藤田嗣治の数々の助言を採り入れ完成しています。
 藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史、二人が残した文化を、後世の美術を愛好する人々、美術を志す若者、藤田嗣治ファンに伝えるためにも、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館すべきではありません。
 心ある皆様、秋田県に、「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転を止め、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館しないよう、訴えてください。
(2013年5月15日)



 秋田県立美術館・平野政吉美術館が閉館になれば、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した「秋田の行事」の最も良い展示の姿が見られなくなってしまうことになります。

 これは、美術愛好家、藤田嗣治ファン、美術を学ぶ若者たち、秋田県、秋田県民にとっても大きな損失です。

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような広い空間で観ることを提案し、美術館の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えるべきです。
(2013年5月15日)



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現秋田県立美術館の展示室が優れているこれだけの理由

 現秋田県立美術館の大展示室が、藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」、平野政吉が収集した藤田嗣治作品などの展示の場として優れている点は、次の通りである。

 まず、現秋田県立美術館の大展示室が、世界的な画家・藤田嗣治の助言により、美術館の屋根に取り付けられた丸窓から、展示室に自然光を採り入れた採光形式になっていることを挙げたい。
 このことについては、美術館の創設者である平野政吉が、複数の新聞、雑誌などにその事実を明らかにしている。

P1010746 平野美術館(丸窓)9月① 1983年(昭和58年)1月12日に朝日新聞に掲載された「聞き書き わがレオナルド藤田」で平野政吉は、1966年(昭和41年)に美術館建設の報告を兼ねパリ郊外、ヴィリエ・ル・バークルにある藤田の家を訪ねた際の様子を語り、その中で平野政吉は、
 ― 「私と別れ際、藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが最後の対面となった。」 (1983年《昭和58年》1月12日、朝日新聞) ― 
と述べている。

② 1985年(昭和60年)に(財)秋田青年会館が発行した雑誌、あきた青年広論の中の「私の青春人物登場(続)」で、平野政吉は、同じく美術館建設の報告に昭和41年5月、パリ郊外の藤田画伯を訪ねた際の様子を語り、その中で、
 ― 「別れるさい、(藤田は)美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光のとれる丸窓にしてくれといいました。宮殿造り、ギリシャ式柱廊へ例の丸窓をつけて画伯の心を忠実に生かしました」(1985年《昭和60年》、あきた青年広論[(財)秋田青年会館発行]) ― 
と述べている。

③ 現秋田県立美術館の2階西展示室入口付近(現在は閉鎖されている)に、現秋田県立美術館についての説明文があり、
 ― 「設計案はフジタと平野。屋根の形、丸い窓、自然光を入れること、壁画の高さとアールをつけることは、フジタの指示だった」(2009年7月に著者が確認、現在は不明) ― 
という掲示があった。

④ 2008年2月14日、当時の平野政吉美術館ホームページに、「秋田県立美術館・平野政吉美術館 開館のいきさつ」が掲載され、その中で、
 ― 「昭和41年には平野はフランスに出向き、藤田嗣治に美術館建設の報告と挨拶をしています。美術館の屋根の形、丸い窓、天然光を取り入れること、壁画の高さと左右アールをつけての展示などは、藤田のアドバイスです」 ― 
との記載があった。

 これらから分かるように、現秋田県立美術館の採光形式については、藤田嗣治からの助言が平野政吉にあり、現県立美術館(平野政吉美術館)に生かされていることが、当事者により、明らかになっている。

 次に、藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を展示している大展示室の広さは、約550平方メートル(1967年《昭和42年》10月1日発行、あきた《秋田県広報誌》通巻65号に記載)、天井高は約18メートルある。非常に広々としており、さらに双曲線の屋根の形から生み出された湾曲した壁面が上方への空間の広がりを一層感じさせている。

 また、3階は、回廊式になっており、正面上方、左右上方からも「秋田の行事」を鑑賞できるよう配慮され、大壁画の壮大さを一層体感できる構造になっている。

 なお、2012年6月に完成した新秋田県立美術館の展示室は、広さ約440平方メートル、高さ約7メートル(推定)であり、入館者から狭いという声が聞かれている。






藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)




 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)



 秋田県は、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を6月末日までで閉館にし、大壁画「秋田の行事」などの藤田嗣治作品を、昨年完成の新秋田県立美術館に移すとしています。
 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館することは、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を閉じることと同じです。
 また、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、藤田嗣治の数々の助言を採り入れ完成しています。
 藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史、二人が残した文化を、後世の美術を愛好する人々、美術を志す若者、藤田嗣治ファンに伝えるためにも、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館すべきではありません。
 心ある皆様、秋田県に、「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転を止め、現秋田県立美術館(平野政吉美術館)を閉館しないよう、訴えてください。
(2013年5月15日)



 秋田県立美術館・平野政吉美術館が閉館になれば、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した「秋田の行事」の最も良い展示の姿が見られなくなってしまうことになります。

 これは、美術愛好家、藤田嗣治ファン、美術を学ぶ若者たち、秋田県、秋田県民にとっても大きな損失です。

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような広い空間で観ることを提案し、美術館の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えるべきです。
(2013年5月15日)



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